コラム「水準器」


■04/15   お花見のスタイルで世相がわかる

 1週間ほど前までは、今年、大阪には桜が咲かないのでは… そんな不安にかられるぐらい蕾が固かった。しかし、この数日で一気に開花し、とくに中之島の大川端はソメイヨシノが川面にかぶさるように咲き乱れている。そういえば22年前、阪神大震災で街が壊滅した神戸や西宮にも、4月には桜の花が咲き誇り、人々の心を癒し、自然にあるものの強靱な生命力を見せつけた。
 花見という風習は、パッと咲いてパッと散る儚さ、潔さが1300年も前から日本人の心をとらえ、室町時代から始まったとされる。桜に限らず、花の下で飲んで食べて歌うといった習慣はアジアやヨーロッパにもなく、世界中で日本だけらしい。そして、花見といえばこれ、天下統一を成し遂げたあとに、豊臣秀吉が催した吉野の花見だ。自ら豪勢な花見を企画、演出したが、この花見で驚かされるのが5000人にのぼる参加人数だ。吉野の山までの行列は10kmにもおよび、権勢を国中に見せつけた。今とは人間のスケールが違う。たかが100万円を渡した、渡さないで吊るし上げを食らう、どこかの国のトップ。太閤さんに比べて哀れでさえある。
 さて、大阪での花見の白眉は、桜の名所として知られる造幣局の桜の通り抜けだ。今年も4月11日から始まり、大勢の人たちでにぎわっている。
明治時代から130年以上続く春の恒例行事で、長さおよそ560mの並木道に、134品種、350本の桜が植えられている。大阪人にとって待ちに待ったこの通り抜けに異変が起きている。大挙して押しかける隣国の人たち。スムースに歩けるように一方通行になっている道の逆歩行、所構わず座りこむ。写真を撮りまくるのは許すとして、顔に桜の花を近づけるため、枝を引っ張る。あげくの果てに折ってしまう。お互い呼び合う声が大きいから、桜の可憐な花を愛でるどころの騒ぎではない。観光地でも、この人たちを観察していると、ものをじっくり見るといった習慣はほとんど無いようで、花見にはふさわしくない国民性がよくわかる。
 愚痴はこれぐらいにして、花見になくてはならないお酒。ブルーシートの上で繰り広げられる宴会がひと昔前と違って、最近妙に静かなのである。高歌放吟するグループも少なく、かといって楽し気に会話が弾んでいる様子もない。お酒を差しつ差されつの姿も見かけない。何をしているのか。そう、スマホをいじっている人だらけなのだ。ひと渡り飲食が終わると、スマホタイムが始まる。会社関係と思しきグループは上司への遠慮からか、さすがにスマホ登場率は低いが、同年代、学生なんかは、下を向いて黙々と機械をさわっている。そんなことは家でやれ、思わず叫びたくなる光景が眼前に広がる。日本はどこへ行くのだろう。