コラム「水準器」


■06/15   新しい世界を教えてくれたプロの販売員

 大阪の天六(天神橋筋6丁目の略称)のオフィスに勤め始めてから四十数年が経つ。ここには日本一長い商店街があり、地下鉄が2線と阪急電車千里山線の始発駅、さらに少し離れてJR環状線天満駅がある。大阪キタの中心地、梅田からもほど近く交通至便、美味しい食べ物屋も多い。何より庶民的で、居心地のいい町である。物価が安いこともあって、外国からの旅行客が毎日ゾロゾロ歩いていて賑やかだ。
 とくに最近、JR駅近くの天満市場周辺に居酒屋、飲み屋、焼き鳥、中華、焼肉、魚、イタリアン、洋食、無国籍料理に至るまで、ありとあらゆる食べ物屋が出来て夜遅くまで賑わっている。それもトタン屋根に覆われた50メートル四方ばかりの場所に、裸電球に、いかにもチープなテーブルと丸いスチール椅子が並び、レトロ感いっぱい。数年前までオジサンばかりだったところに、昭和のノスタルジーを求めて若い女の子が押し寄せている。嬉しいような、迷惑でもあるような、複雑な心境の今日この頃である。
 こんな地元に、それこそ何十年も通っている食堂がある。ところが、ここでは玉子焼きとシチュー(澄んだスープにじゃがいもと玉ねぎ、バラ肉のみで絶品)、白ご飯しか食べたことがない。また、週に一度は行くうどん屋では、肉うどんとかやくご飯のみ、さらにある中華屋ではあんかけ揚げそばしか食べない。書き出すとキリがないので、ほかは割愛する。単品で商売しているわけではないから、ほかにもそれぞれ料理はある。しかし食べたことがないから、旨いか、まずいかわからない。年をとって頑迷固陋になったわけではない。
若いころからの習性なのだ。
 身につけるものも一緒で、高校時代に目覚めたトラッド(アイビー)一辺倒で、ほかのスタイルをしたことがない。ゴルフウェアも白と紺、差し色にグレー以外は着ない。たまに何を買おうかと迷っても、いつも着ているものを選んでしまう。食べ物も着るものも、同じものに決めていると迷ったり、悩んだりしないですむ。したがってストレスの溜まらない毎日を過ごしている。
 ところが、つい最近、メンズ物ばかり扱っているファッションビルで、女性のベテラン販売員に、意外なジャケットを奨められた。ふだん買っているものとは全く違った異色の服だったが、思わず買ってしまった。経験を積んだ販売員は客の好みをわかった上で、そんなテクニックを使うのだという。一度着てみたが、この年になって新しい世界が広がった気がする。頑固さが自分の信念にもとづいたスタイルだと思ってきたが、小さな殻に閉じこもってきただけだったのではないか。何の商売でもプロはすごいと思った。