コラム「水準器」


■10/01   「こんなにたくさんは食べ(ら)れない」

 普段、何気なく使っている言葉でも、その使い方や読み方が間違っていたという経験は誰にでもあるものだ。ある程度年をとると、他人も指摘、注意しなくなるから、気づかずに一生過ごすことになるケースもある。私は「天地無用」という言葉を、若いころから「心配無用」とか「問答無用」のように「必要ない」という意味に解釈してしまっていた。本来のこの言葉の意味は、「壊れやすいものが入っているから、さかさまにひっくり返してはしてはいけない」ということ。そんなに頻繁に使う言葉でもなく、意味の取り違えで指摘されて恥をかいたこともないが、何十年も間違って認識していたのだ。
 「見られる」より「見れる」??文化庁がこのほど発表した『平成27年『国語に関する世論調査』の結果によると、いわゆる「ら抜き」言葉を使う人が多数派になったという。調査を始めた1995年以来、初めてのことだ。今年は初日の出が(見られた・見れた)・ 早く(出られる?・出れる?)という2つの例文で、「見れた」「出れる」の「ら抜き」言葉を選んだ人の数がわずかに上回りった。一方、こんなにたくさんは(食べられない・食べれない)、朝5時に(来られますか・来れますか)という例文では、「ら抜き」ではない文章を選んだ人が多数派となっている。この言葉に関しては、まだそこまで「ら抜き」が浸透していない。年齢別で見ると、若い年代ほど「ら抜き」言葉を使用している傾向があり、とくに「見られた・見れた」は16?19歳は76.2%が「見れた」を使用しているのに対し、70歳以上で「見れた」を使用している人は30.6%と激減する。
 この例を待つまでもなく、日本語はどんどん変化している。年配者からすると、今の新しい表現はどうしても言葉の乱れととってしまう。先日も、そこそこグレードの高いイタリアンレストランで、ソムリエ資格所有のバッジをつけた品性豊かな女性が「バイト敬語」を連発するのに驚いた。「お席のほうにご案内します」「メニューになります」「アンティパスト(前菜)になります」などなど。ファミリーレストランならまだしも、こんな変な言葉が日本中あらゆるところを侵食し始めたのだ。
 今回の文化庁の国語に関する世論調査では、一般化しつつある言葉の意味の取り違いにも言及している。『愛嬌を振りまく』が(愛想を振りまく)に、「押しも押されもしない」→(押しも押されぬ)、『的を射る・当を得る』→(的を得る)などで、私が一番嫌いで生涯使わないと心に決めているのが「死にざま」という言葉だ。最近、テレビのコメンテーターなどがよく使っている。「生きざま」の対語として生まれたのだろうが、言葉の持つニュアンスに嫌らしさを感じる。ともあれ、使われ始めた時、奇異に感じられた言葉、たとえば超○○なども今ではすっかり暮らしの中に溶け込んでいる。言葉は生き物と言われる所以でもある。